どうして、ヨットで日本一周をしているの か?
知らない方もいると思うので、その経緯を話してみたい。
7年間続いた国連の公式プロジェクトエクスペディション マタランギを終え帰国。
カムナ葦船プロジェクトを立ち上げる。
そして8年前、高知県から伊豆諸島まで渡った葦船 カムナ号。
船長として、命を預かる身として航海に対して的確な指示が出せなかった自分の未熟さを痛いほど知らされたのが今回の旅の始まりだ った。
その未熟さのせいで多くの人に心配や迷惑をかけたのも事実だ。
とにかく、まずはプロジェクトでの数百万円 の借金を返済する事。
当たり前だがそれまで 旅のことは封印する。
すべては葦船太平洋横断のためと心に決め、コツコツ働き返していった。 6年かかって返済が終わった。
次はヨットを学ぶこと。
葦船での太平洋横断を目指すなら、まずはヨットで模擬航海をする必要がある。
北太平洋の嵐を体験していない船長が嵐の中で暴れる葦船の上で何を指示できるというの か。
しかし、マズい。ヨットには乗ったこともな い。
それならば、ヨットで太平洋を渡る前にまず は日本を回りながらヨットのことを学ぼうと決めた。
ホップ!ステップ!ジャンプ!
まずはヨットで日本一周。ホップ!
次にヨットで太平洋横断の模擬航海。ステッ プ!
最後に葦船での太平洋横断。ジャンプ!
若い時と違い、いつの間にか確実に一歩一歩進まなければ たどり着かないと思える年齢にも達してい た。
恥ずかしいがヨットを手に入れたとき、何もかも全くわからなかった。
20本近くの色とりどりのロープがきれいだなと思った。
どのロープを引けばセールが上がるのかさえもわからなかった。 セールも風に対してどの角度にするのか正確 にはわからない。
葦船とは全く違う別の乗り物だ。 ズブの素人同然だ。
気持ちいいほどゼロからのスタート。
これでいいのだ!
まずは教えてもらわないと始まらない。
名古屋の葦船作りでお世話になったヨットマ ンの田中さんに相談した。
広島から伊勢まで一緒に航海しその間に教え てもらいたいと、今考えるとぞっとするよう な無謀なお願いをした。
それでも田中さんは快諾してくださり、僕は処女航海へと一歩進む。
海図の見方、書き込み方、航海術のこと、セールの上げ下げに角度、エンジンのトラブルの対処の仕方まで短時間だが素人の僕に根気強く教えてくれた。
その5日間が全てだった。
そのあと1ヶ月間ひとりで毎日毎日練習を続け、伊勢から千葉の母港まで1人で乗って帰った。
無事に着いたからよかったものの、天気のことがわからず嵐のような日を選んで。
その経験だけでヨットで日本一周の旅にでることを決めた。
ひと月の経験では無謀だと言う人も1人ではなかった。
朝出港して、夕方寄港する1日の旅だったらできる。
そして1日の旅が毎日毎日つなげていったら単純に日本を回って帰ってこれるに違いない。
その間にヨットのことをじっくり学ぼう。
トラブルを乗り越えながら経験値をあげていこう。
そして出港してからすでに延べ240日が過ぎた。
寄港した港の数も100箇所を過ぎ、距離にすると5,800キロを超えた。
途中から、葦船副船長のしげさんも乗ってくれた。
その間にはいくつものトラブルがあった。
マストのワイヤーが切れた。
エンジンはあっちこっち故障した。
セイルをカットしなおし、ファーラーも教わりながら取り付けした。 業者に任せるのではなく、一つ一つの問題を先輩方に手伝ってもらったり、電話で聞きながら教わり、自分の手で悩みながら修理を繰り返した。
もし、トラブルが一度もなく日本一周が終わっていたらヨットの修理一つできない素人同然の僕がいたに違いない。
そう、この2年間でいろんなトラブルが僕を育ててくれたんだと今なら思える。
きっとそのうち、一つ一つの故障やトラブルが笑える思い出に変わることに違いない。
そして、いつの日かヨットを始める後輩たちに修理の仕方をアドバイスしている自分に出会いたいものだと思う。
次の目標は、ヨットでの太平洋横断の旅。
そこにはまだまだ未知な困難やトラブルが待っているに違いない。
それでも越えていきたい。
そのときは一回り大きな自分に会えるだろうか。
そのときは、葦船での太平洋横断の船長として必要なものが身についているだろうか。
すべては、海の手紙を運ぶため。
そのために生まれてきたのだから
(文、石川仁)