葦船での航海を考えるときその時代のものを想定して再現していく。
船体やキャビン(小屋)などはまだわかりやすい。 服は着ないのか? 食べ物は? ライフジャケットは?
寝るときは?
時間を飛び越えた不可解な問いはグルグルと正解も終わりもない回るループとなる。
100%再現はできない。
あとは、美学の問題だ。
現実と理想のバランスを考えて一歩でも近づけるように努力とあきらめを繰り返す。
その中で、特に関心があるのが古代の海を越えた民の持っていた精神性についてだ。
僕は今までの太平洋航海プロジェクトを含め葦船作りで先住の民が行う自然に対してのセレモニー(儀式)をとても重要なことだと信じている。
現代でも先住民たちは葦船の材料を刈り取る前に、舟の進水式の前に、航海の前に、航海が終わった後など今でも自然に対して人間と同じ目線で語り、敬い畏れの感覚をもって儀式を行う。
では、1万年前葦船で海を越える民はどのような感覚だったのだろう。
つまり、古代の宗教観や死生観とは何かということに突き当たる。
ここをどのように再現して同じようになぞることができるのかに葦船航海復元の真髄を感じる。
1万年前の葦船の時代といえばキリストも仏も天照大神も宗教として存在し始める遥か以前なのだから、「神」という今の僕らの持つ概念はおそらくなかったであろう。
かといって今とは比べ物にならないほど自然と直結していたであろうから太陽や海や自然をを崇めるアミニズム(自然崇拝)だ、というのも素直に頷けない。
崇拝する思考自体があったかどうかもあやふやだからだ。
僕が思うに、きっと原始宗教といわれるものよりずっと向こう側にあったもっと 「シンプルな感覚」 ではなかっただろうか。
混ざり気がなく純粋で自分以外の生き物や存在に対しての距離感がもっと近いか同じことから生まれる”自然との一体感のような感覚”を持っていたのではないだろうか。
その”感覚”がそのまま形を変えて航海術となり見えない島に向けて風を呼び海流をこえていくことにつながるのではないだろうか。
その「感覚」とは一体どういうものなのだろうか?
これからこのプロジェクトを進めるうえで体験を通じてその「感覚」を共感でき、それを伝えることができればと願うばかりだ。
※ 僕自身が体験から通して感じた葦船についての独自の理論、美しい知恵を伝えていきます。
かつて世界中に存在した草を束ねた葦船の文化。 そのあふれる魅力を皆さんとシェアしていきます。